Interview

インタビュー

株式会社VOYAGE GROUP 取締役CFO 永岡英則氏

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前身となるアクシブドットコム創業直後に参画し、サイバーエージェントの傘下入りからMBO。東証マザーズへのIPO、東証1部への市場変更など、企業成長を牽引し続ける株式会社VOYAGE GROUP・CFOの永岡英則氏。そのキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之


 

 インタビューは久しぶりというご状況でしょうか?

そうですね。もともとあまりメディアに出るタイプではないですし、特に上場してからはほとんど無いですね。

 大変光栄です。
現在は、ほぼこちらのビル(渋谷スクエアA)にいらっしゃるのですね。

ええ。本社と行ったり来たりではありますが、基本的にはこちらですね。

 こちらのオフィスはだいぶシンプルですよね。

本社のオフィス(渋谷ファーストプレイス)と比べるとそうですね。エントランスもVOYAGEっぽくはしてありますが、特に何も無いですし(笑)。

 今はこちらで、VOYAGE VENTURESさんも代表として牽引されていますが、業務範囲はとても多岐に渡っていますよね。

まぁ、裏方稼業ですからね。基本的には何でも屋ですよね(笑)。誰か代わりにやってくれそうな人がいることは全部やってもらって、逆に誰もやらなそうなことは(雑用だったとしても)何でも引き取るっていうスタンスです。

最近は特に組織も大きくなってきているので、何でもかんでも自分で…というよりは、黒子として、最後の砦として、というような意識でやっています。

 今の立場でもう15年ほどですよね。

そうですね。この会社にJoinしてからということだともうすぐ16年になりますね。

 いろいろと大変な面もありましたよね?

まあ会社という意味では本当に色んなことがありましたよね。でも個人的にはあんまり大変だったっていう感じはないんですよね(笑)。たまに聞かれるんですけど、苦労とか修羅場は何?って言われても、特にこれっていうのはないんですよ。

 素晴らしいですね。何となくそれも永岡さんのお人柄のような気がします。

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株式会社VOYAGE GROUP 取締役CFO 永岡英則氏

 

鈍いというか、性格がいい加減なんでしょうね(笑)。

 若いときから「経営」に興味があったとおっしゃっていましたが、幼少期の頃からなのですか?

いや、さすがに幼い頃はそんなこと全く考えていなかったですね。

 ご出身は東京ですか?

はい、東京です。父が銀行員で転勤族だったので、一時期(幼稚園年長から小学三年生の途中くらいまで)兵庫県にいたことがあるんですけど、あとはずっと東京です。

 兵庫の頃の思い出などありますか?

兵庫の芦屋だったんですけど、銀行の社宅に住んでいました。集合住宅で敷地がとても広かったんですよ。広場があったり、その奥には木が生い茂った森林のような場所もあったり。そこを探検して回ったり、竹藪の中でタケノコを掘ってみたりとか。
同じ年代の子達もたくさんいたので、自然の中で走り回っていましたよ。夜遅くまでとにかく走り回っていたという記憶がありますね。

 東京に帰ってきてからはどうでしたか?

帰ってきたのが吉祥寺だったんですけど、もう劇的に環境が違いますよね。
近くに井の頭公園はありますけど、子供が走り回って遊ぶという感じではなかったです。
せいぜい武蔵野公会堂っていうのが駅前にあって、月曜日が休みなんですね。で、駐車場で野球をやったりとかはしましたけど、まぁ狭い(笑)。
いろいろな意味で、環境はガラッと変わりました。

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株式会社Widge 代表取締役  柳橋貴之

 

 兵庫を離れる時は寂しい思いをしたのですね。

すごくありましたね。特に東京に帰ってきて、いわゆる転校じゃないですか。全く知らない人達の中に入っていくという、当時としては非常にインパクトのあった出来事でしたよ。
子供ながらにとても理不尽に感じたのを覚えていて、父が自ら「あそこに住みたいから引っ越すぞ」と言うのならまだしも、誰かも知らない人(会社)に「あっちにいけ」って言われて家族総出で行かなければならない(自分も転校しなければならない)…。
そのトラウマが少し残っていたのか、就職するときにも、自ら住みたいところに住める、要は「転勤のない仕事がいいな」ってことは考えましたね(笑)。

 そうでしたか(笑)。やはり結構なインパクトだったのですね。
でも永岡さんの性格であれば、東京に来てからもすぐに順応されたのでは?

そうですね。まあ子供のことですから、比較的早くに順応できたかもしれないですね。
3年生の途中から引っ越してきたんですけど、学校も結構良かったんですよ。たくさんの仲間もできましたし。ちなみに妻もそこにいた同級生ですからね(笑)。当時の仲間達とは、いまだに付き合いがあります。
なので、結果的には転校したこと自体それほどネガティブなことはなかったんですよね。地元の少年野球チームに入ったりして、それはそれでとても楽しかったんですよ。

 野球もされていたのですね。
中学受験の勉強もあったので、5年生で辞めちゃいましたけどね。

 中学受験はご自身の意思ですか?

あまり覚えてないんですが、まあ実際は親の意向が強いでしょうね。小学4年生から塾に行き始めたんですけど、4年生で将来の自分を考えて…のようなことはないでしょうから。当時は、塾っていうのもよく分からないまま始まったような気がしますよ。最初は週に1~2回程度だったかと思うので、時々行くところみたいな、そんなイメージでしかなかったと思います。
当時はまだそんなにガリガリ勉強をっていう感じでもなかったので、楽しいし、それで良かったんでしょうね。
5年生になると日曜テストが始まって…というように自然に進んでいきますよね。

 まわりの仲の良い友人達も同じように塾通いをされていたのですか?

学校の友達では少なかったですね。今は違うみたいですけど、当時は中学受験をする子がまだそんなに多くなかったと思います。

 

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親の同僚のお子さんが通っていた塾を勧められて、そこに行くことになったんですけど、代々木なので、電車に乗って通うんですよね。5~6年生になってくると科目も増えてくるので、帰ってくるのが夜の10時頃になるんですよ。そうなると、まわりの受験をしない子達とはライフスタイルが違ってきますよね。まわりとちょっと違うんだなという感覚は、徐々に出てきたと思います。

 結果的に志望通りの中学校へ進学できたと。

そうですね。どこの中学を受験するのかっていうのは、ある意味、自分の中でしっかりとした最初の意思決定だったと、今でもはっきりと覚えています。
結果的には麻布中学に進むことになるんですが、麻布ってそれなりに入りにくい学校だったので、入れるかはどうか微妙なわけですよ。すごく成績が良かったというわけでもなかったので、一か八かだなって。

一方で、もう一つ、駒場東邦という学校があるんですけど、実は創立者(初代校長)が、うちの曾祖父なんですよ。
僕の母方(母親の母親の父親)なんですけど、母はやはり駒場東邦に行かせたいわけですよね。良い学校だし、入れる確率も高かろうし、なんで駒場東邦にしないんだっていうのはありましたね。
でも学校に曾祖父の銅像が立ってるわけですよ。曾祖父の銅像が立っている学校に行けるか?って子供心にあって、だったら麻布って比較的自由なスタイルの学校なので、そっちの方がいいなって思ったんですよね。一か八かになっちゃうけど。
父も含めて、もともとそんなに私立にこだわっていたわけではなかったので、落ちたら地元の公立中学校に行けばいいやっていう気持ちで受けたら、たまたま受かりました。結果的には弟が駒場東邦に行ったので、親としても良かったんじゃないですかね。

 中学・高校に入って熱中されていたことは何かありますか?

高校時代はずっとパチンコと競馬をやってました。今思うとなんであれほど熱中していたのか分からないんですが、何しろ楽しかった。(笑)
部活でいうと陸上部に入っていました。短距離がメインで、時々砲丸投げやったりと。

 もともと走るのが得意だったのですか?

そうですね。わりと走るのが速かったんですよ。幼稚園から高校3年生までリレーの選手にならないことが一度もなかったくらいで。芦屋時代に走り回って育ったというのも効いたんですかね(笑)。

 陸上の成績はどうだったのですか?

学校内とか港区内では、結構速い方なんですけど、都大会に行くと桁違いに速い人とかいて、レベルが全然違いましたね。やっぱり短距離なんてメジャーな種目なので、競技人口もすごく多いですし、上には上がたくさんいましたよ。

 学校内の催し事などでは何か関わりを持たれていましたか?

文化祭の実行委員をやっていましたね。だいたい決まった人が毎年やっているので、担当の部局っていうのが決まってくるんですけど、僕はやっぱり会計局だったんですよ。好きだったんでしょうね。お金そのものが好きっていうよりは、それをコントロールするということが本能的に興味があったんだろうなと思います。高校生ながら1千万円近い予算を動かしてましたからね。

 

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 会計とかお金といった分野には本能的な興味があるのですね。

父が銀行員だったということも影響しているかもしれないけど、お金への関心は凄く高かったような気がします。
例えば、僕がまだ5歳くらいの時ですかね、お年玉をもらうじゃないですか。母が郵便局に僕の名義の通帳を作って、そこに入れておきなさいねって。まぁ一般的ですよね。
で、毎年お年玉がそこに加算されるんですけど、そこで利子っていうのが付くと。これは子供心にすごく嬉しくて。

当時、芦屋の頃ですけど、車に野菜とかを載せて売りに来るおじさんがいて、冗談で「ひでくんさ~、お金持ちなんでしょ?おじちゃんにお金貸してよ」って言われた時に、「利子付けて返してくれるんだったらいいよ!」って言ったらしくて、それがすごい評判になっちゃったんですよ(笑)。さすが銀行員の子やなって(笑)。

 利子つけて!とは、さすがに周りの大人も感心しますね。

まぁ、嫌な子ですよね…(笑)。
あとは、これもその頃ですけど、生協ってあるじゃないですか。生協のお兄さんが週に1回配りに来ていて、とても感じの良いお兄さんで、いつもくっついて歩いていたんですよ。で、ある日たまたま冷凍エビが余っちゃったと。これをとりあえずその場で売り切るっていうことをやっていて、僕も一緒になって「おばちゃん、この冷凍エビいらない?」みたいにやっていたら、それが全部売れちゃって(笑)。そうしたら、そのお兄さんが、「永岡君のお陰で全部売れたよ」ってお小遣いくれたんですよ。多分50円だったんですけど、それが僕の人生で一番最初の「仕事をして得たお金」だったんですね。この労働対価を得るという初めての体験は相当嬉しかったんですよね。今でも鮮明に覚えていますから。

vol.2へ続く

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