Interview

インタビュー

株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA) 執行役員経営企画本部長 小林賢治氏

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株式会社コーポレイトディレクションの史上最速マネージャー記録を打ち立て、株式会社ディー・エヌ・エー(DeNA)に執行役員ヒューマンリソース本部長として参画。その後、ソーシャルゲーム統括部長、Chief Game Strategy Officerを経て、現在、執行役員経営企画本部長として同社のコーポレート部門を牽引する小林賢治氏のキャリアストーリーを伺った。

※インタビュアー/株式会社Widge 代表取締役 柳橋貴之


 小林さん、インタビューは久し振りですか?

久し振りですね。このポジションになってからは初めてですよ。パネルディスカッションなども含めて、外向けにお話するのは初めてになりますね。

 そうでしたか。そういった場を選んで頂き、本当に光栄です。

人事の時とか、ゲームを見ていた時とかは、比較的インタビューも受けていたんですけどね。

 現在の管掌範囲はどこまでなのですか?

いわゆるコーポレート系と呼ばれる範囲の中で人事・総務以外の全てですね。経営企画や管理会計、経理、法務、広報、IRなど、ほぼ全体を見ています。

 事業サイドからコーポレートサイドに移られる際は、ご自身の意思も大きかったのですか?

そうですね。事業部門を経験しているからこそ、「こういう時にこういう動きをすると痒いところに手が届くな…」みたいな点が分かったりするじゃないですか。

 確かにそういった視点で見ると、コーポレート部門としての動き方も変わりますよね。

コーポレート部門って、定義の付け方によって仕事内容がどうにでも変わり得るような気がしていて、そういう面で言うと、一番やりたくないパターンは「御用聞き部門」なんですよ。
しかも、コーポレート部門って、組織が大きくなってくると、たいがい摩擦係数を高める方向に向かうじゃないですか(笑)。他の部門から「堅い人達の集まり」とか「なかなか通してくれない」みたいな…。
そういう状態で現場の要望に応えていこうとしてしまうと、それって受け身で、いわゆる「御用聞き」じゃないですか。
そうではなくて、いかに現場側にポジティブな影響を与えられるか、「いかに先回りするか」ということをテーマにやっていくことをとても大切にしていますね。

株式会社ディー・エヌ・エー 執行役員経営企画本部長  小林賢治氏

株式会社ディー・エヌ・エー 執行役員経営企画本部長  小林賢治氏

 

新しい事業を立ち上げる時も、例えば「これはリスクあります」って単純に言うよりは、「リーガル的にこういうところに気を付けた方が、良い方向に進むのではないか」みたいなアプローチをすると、より効果的だったりするじゃないですか。
管理会計も「どうしたら事業の判断に活かせるか」ということを考えたりとか。その辺りを意識しながら進めることで、事業側との良いシナジーがどんどん生まれると思うんですよ。
そういったことを考えて、自らコーポレート部門に、という意思はありましたね。

 なるほど。とても参考になります。
DeNAさんには、もともと人事として参画されて、たしか「ゲーム好き」ということもあって事業部門を見られて…という流れだったかと思うのですが。

確かにそうですね(笑)。

 ゲーム好きといってもレベルは様々かと思いますけど。

まぁ、そこそこにはゲームマニアだと思いますよ(笑)。

 昔からですか?

そうですね。

 ご出身は東京ですか?

いや、兵庫なんですよ。18年間、兵庫で育っているんです。生まれは加古川で、中学・高校は姫路ですね。そんなに柄の良くない地域ですよ(笑)。日本一運転が荒いって言われていますからね(笑)。

 本当ですか(笑)。
代々、兵庫なのですか?

昔から兵庫ですね。加古川から引っ越したこともないので。

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株式会社Widge 代表取締役  柳橋貴之

 

 その環境の中で、進学校に進まれていたわけですね。

近くには淳心と白陵という学校があって、僕は淳心に行ったんですが、地域では進学校で通ってました。場所柄、卒業後は京大に行く人が多かったんですけどね。東大よりも3倍くらい多かったんじゃないですかね。

 幼い頃からよく勉強はされていたのですか?

いやぁ、だいぶしていましたね、小さい頃は(笑)。3歳から週6日の習い事をしていましたから(笑)。

 3歳からですか!?

そうなんですよ。ピアノ、書道、水泳、公文、お絵かき、などなど。途中から体操とか柔道とかバイオリンとか…。

 すごいですね。
ご実家は素晴らしいお家柄なのですね。

いや、そんなこともなくて、いたって普通の公務員家庭なんです。
親は公立高校の教師で、特別に裕福な家庭だったというわけではないんですけど、異常に教育資本に投資していた家庭だったんでしょうね(笑)。

 そうなのですね。教育に対してはだいぶ投資をしていたと。

そうですね。兄もそうでしたから。
よく「何らかの形で、この教育投資は返すべきだよ」ということを父から言われていましたね。「これをやりなさい」みたいなことは一切言われなかったですけど、「教育を社会全体から受けて育ったということは認識しなさいよ」ということは、よく父からも言われていましたね。

 それにしても、3歳からそこまでの習い事はすごいですね。
何から始めたとかは覚えていないですよね。

覚えていないですね(笑)。たぶんピアノだと思いますけど。

 ピアノですか。

母がピアノの教師だったんですよ。ただ母は自分で教えたら甘くなると言って、別の先生に教わっていましたけどね。

 もう3歳頃からは、習い事が当たり前になっているわけですね。

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そうですね(笑)。だから、小さい頃はあんまり周りの友達といっぱい遊んだ!みたいなことも少なかったように思いますね。毎日幼稚園から帰ってきたら何かあるみたいな生活でしたから(笑)。

 最もしっくりときた習い事は何だったのですか?

音楽ははまりましたね。母が(世代的には珍しいと思いますが)音大の出身で、その辺りは親から受け継いだんでしょうかね。

 そうですか。本格的に音楽の道にと考えた時もあったのではないですか?

ありますね。中学時代もずっとやっていましたし。最初に吹奏楽部に入部して、途中でバンドをやるようになって(笑)。受験シーズンはさすがにストップしていましたけど、それからしばらくバンドでしたね。
それで大学でまた吹奏楽をやって、さらにオーケストラをやっていましたね。たまにジャズ研に呼ばれたりもしましたけど。

 オーケストラのパートは?

フルートです。中学の頃からずっと。
オーケストラは長い期間やっていますね。コンサルに就職してからもやっていましたので(笑)。

 そうですか。これまでの人生において、音楽は大きな割合を占めているのですね。

本当にそうですね。音楽でいうといくつか人生で大きな出来事があって。
一つ挙げるとすると、10歳の時にベートーヴェンの第九をオーケストラと一緒に歌ったんですよ。労音の方々が企画した加古川市のイベントで、市民合唱団とプロのオーケストラでやるイベントだったんですが、第一回目の企画ということで、指揮者も山田一雄先生という非常にビッグな方を招いていて。

母がそれを「やろう」と。「やろう」って言われても…って思うじゃないですか(笑)。全員大人の中に10歳の少年が交じるってなかなか想像できないですよね(笑)。ドイツ語も全く分からない中、カタカナで覚えるわけですよ。
それでまぁ、何とかなるかなぁと思いながら、本番に出たんですけど、その本番の演奏中に泣いちゃったんですよ(笑)。感動して。10歳の少年が感動して泣くなんてこと、あんまり無いじゃないですか。それで「音楽ってすごいな」って思ったんですよ。
この体験がとても色濃く残っていて、「またこんな体験がしたいな」という思いで(形は変えながらも)音楽を続けてきたんだと思いますね。

 小学生でそんな素晴らしい体験をされているのですね。なかなかできないことですよね。
数多くの習い事をしながら、音楽にのめり込んでいくことを考えると、周りの友達と何かをやったり、どこかに行ったりということも少なかったのでは?

そうですね。ほとんど無かったかもしれないですね(笑)。別に浮いていたかと言われると、そんなことは無かったと思うんですけど、成績は良いなくらいは思われていたかもしれないですね(笑)。通知表もオール5だったので(笑)。周りもそういう扱いですよ。「あの子はね…」みたいな(笑)。

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 いや~、すごいですね。中学は受験をされているわけですよね。

そうですね。

 では小学4年生頃から塾に通って。

ええ。でも5年生の時に一回辞めちゃって。結局6年生で戻りましたけど。

 何で一回辞めてしまったのですか?

なぜかその時は無気力で(笑)。

 無気力になるのがまた早いですね(笑)。

そうなんですよ(笑)。そんなにあくせく生きなくてもいいんじゃないかって思っちゃって(笑)。その頃に習い事もバサッと一度辞めているんですよ。
逆にこれまで一度もやろうと思っていなかった柔道をやろうと思って、自分の意思で「やらせてほしい」って言ったのを覚えていますね。
親にやらされていることが急に嫌になったんでしょうね。だから一回ゼロリセットして、自分のやりたいものだけに絞ると。

 どうして柔道をやりたいと思うようになったのですか?

父の勤務先である高校の体育の先生が細川先生といって、ロス五輪の柔道金メダリストなんですよ。とても人格者で、格好いいなって思って。
あとは当時『YAWARA!』っていう漫画があったじゃないですか。あれを見ていたというのもあって、柔道やりたくなったんですよ。

 そうですか。それと6年生の時に復活した塾と。

そうですね。

 塾の中でも成績はずば抜けていたのでは?

4年生の頃は、「兵庫模試」というのがあってそれで1位だったんですけど、それで図に乗って5年生でさぼって、6年生で行くと周りの方が断然できるようになっているんですよ(笑)。
それで気を抜いているとやばいなと。世の中そんなに甘くないなっていうのは覚えましたね。なので灘とかは狙えず、いわゆる偏差値でいうともう少し下の学校を受けよう、と。
ただ、結果的に第一志望だった学校に落ちて、そこよりも偏差値が高い第二志望に進学することになり…。

 なぜ偏差値を落とした学校が第一志望だったのですか?

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共学だったからです(笑)。好きだった先輩が行っていたんですよ(笑)。同じ塾の一つ上の先輩で。どうしても一緒に通いたくて。

 それは残念でしたね(笑)。

で、男子校の淳心に通うことになるんですけど、でも結果的には良かったですね。

 そうですか。

でもその辺りから思ったのは、結果論として実は良かったということってあるんだな、ということですね。それ以降、「これじゃなきゃダメだ」ってあまり思いこまないようにしないとな…と思うようになりましたよ。
単に自分が知らなかっただけで、やってみたら実はすごく面白かったっていうことがあるということも、当時の進学からも学びました。

 

vol.2へ続く

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